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日本潜水会の誕生
1960年代の日本でスクーバダイビングの初心者講習を組織的に行っていたのは、日本潜水科学協会であったが、1966年(昭和41年)日本潜水科学協会は、シートピア海底居住計画を国家的なプロジェクトとして行うために、科学技術庁の公益法人となり、社団法人海中開発技術協会に生まれ替わった。スポーツ、レクリエーションも含まれる一般のスクーバダイビングの普及活動、講習活動とは縁を断った。発行されていた機関紙「どるふぃん」は、1965年秋号で終わっている。
1965年当時、スクーバダイビングの初心者講習は、日本潜水科学協会関東支部と関西支部でそれぞれ行っていたが、本体の潜水科学協会が姿を変えてしまったので、支部は事実上消滅した。
講習を担当していた私たちは裏切られた感を強く持った。この協会は、姿を変え形を変えて、その後も一般スポーツダイバーを裏切りつづける。
しかし、若かった私たちは、人を恨むのはまちがいであり、自分たちで立ち上がらなければいけないと新しい指導組織を立ち上げることを決意した。親友の後藤道夫や一年後輩で日本アクアラングに勤務している浅見国治、NHKのカメラマンである河野裕一、竹内庸らが発起人となってダイビングの指導組織、日本潜水会を結成した。
第一回の講習を1967年12月、伊豆海洋公園(当時は東拓海洋公園)で行った。
皆で集まり、話し合って今後の方針を定め、技術講習のプログラムは、海洋公園のプールと海で、互いに自分の身体で確かめ合って作った。その時に集いあって、一週間の合宿生活を送った仲間は生涯の友達であり、この友情が核となって、友情の輪を広げて行った。しかし、友情とは美しい個人感情ではあるが、ビジネスとは相反するものでもある。日本潜水会のその後の発展を阻害する要因にもなった。
日本潜水会発足の講習会では、参加メンバーがそれぞれ、自分の器材を手に持ち身体に着けて記念写真を撮影した。これを一冊のアルバムにまとめてある。卒業したどの学校の卒業アルバムよりも、私にとって貴重なアルバムなのだが、当時の器材が写されていて、当時のダイバーのスタイルがわかることでも貴重である。BCDの無い時代のライフジャケットを着装した姿も珍しく見えるかもしれない。
1960年代の後半、日本が一番希望に満ちていて輝いていた時代である。
メンバーとその使用していたフィンについて紹介しよう。
紹介はアイウエオ順である。親友であり、親戚みたいな気持ちを今でも持ちつづけているから、敬称は省略した。
浅見国治。 浅見はアメリカに留学してNAUIのインストラクターになっていた。彼がアメリカのダイビングインストラクターになった日本人の第一号である。須賀と浅見は共著で1966年、「アクアラング潜水」を書いた。発行元はダビット社で、日本で始めて書かれたスクーバダイビング初級技術書である。この本には、日本潜水科学協会の行っていた初級講習プログラムが紹介されているが、日本潜水会の発足とともに、初級だけではなく中級(2級)、上級(1級)さらにインストラクター(指導員)の講習を行うためのプログラムも開発しなければならなくなった。 | |
青木大二 今、2001年にも新宿御苑の前で店を開いているダイビングショップ「東京アクアラングサービ スは、東京で二番目に開店した老舗である。オーナーは三回代替わりをしたが、その初代のオーナーが青木さんである。 フィンはクレッシイのロンディンを履いて写っている。 | |
日本のダイビング界の草分けは二人。一人は菅原久一さん、もう一人が大崎映晋さんだ。菅原さんが軍人上がりで作業ダイバーも経験し、器材、ハードを開発した。大崎さんは、芸術家風であり、シャークハンターという本を訳したりして、ソフト開発派である。菅原さんは鳥打帽を愛用し、大崎さんはベレー帽を愛用した。 世界水中連盟(現在のCMAS)の日本支部として日本水中連盟を結成し、その会長であった。世界水中連盟のフィッシング大会であるブルーオリンピックには、大崎さんが団長となって何度か出場していた。後に大崎さんが、ジャック・マイヨールの日本での記録挑戦のコーディネートをした。弟子では、館山でダイビングサービスを開いている成田均さんがいて、マイヨールに連なる。 |
フィンはイタリー製のスーパーロンディンを使っていた。スーパーロンディンはフィンのブレード(水を掻く部分)に大きな穴(スリット)が開いていて、この部分にパタパタと開閉する板が貼り付けられている。これによってフィンを蹴り降ろすときには貼り付けた板が開いて水をある程度逃がしてしまう。蹴り上げる時には板が閉じてしっかりと水を捉える。これで、蹴り降ろす時と蹴り上げる時の力のバランスがとれて効率良く泳げるというふれこみの新型のフィンである。
このフィンが始めとなって、次々にブレードに穴が開いていたり、ジェット機の噴出口のように斜めに水流が動くようなスリットが開いたり、水を逃がして推進力にしようとするようなフィンが開発され売り出されるようになった。
キューバの花は何ですか?
フィンに限らず、マスクでも、スノーケルでも、BCDでも、ダイビングの道具は人間と一体になって能力を発揮する。マンマシンシステムという表現がぴったりする道具である。フィンは足の一部分となり、マスクは顔の一部分、スノーケルは気管の延長である。フィンは足の一部分であるから、一度慣れてしまうと、なかなか別のフィンには代えにくい。チャンピオンも私の体の一部分になってしまっていたから、ずいぶんと長い期間愛用した。その前のピレリも長かった。 つまり、スリットのあるフィンを履く人は、速く泳ぐことよりも楽に泳げることを求めている。この流れは、現在(2001年)流行しているプロペラフィンのコンセプトにつながる。
私の泳ぎ方、泳ぐ感覚では、ブレードに穴を開けて水を逃がしてしまうことがどうしても納得できない。フィンで水を押して推進しているのだから、最も効率良く水を押すフォームを考えて泳ぐ。スリットを開けるフィンのコンセプトは、水を押すのではなくて、後ろに流すイメージが強いようだ。どちらが良い、どちらが悪いというものではない。泳ぎ方が違えばフィンの選択も変わってくる。
ただ、一つだけ言わせてもらえば、フィンを使って泳ぎ、速さを競うレースで、スリットのあるフィンが新記録を作ったことは無く、その年のチャンピオンになったこともない。
しかし、当時の私は、そんなことはわからなかった。とにかくフィンに孔を開けてしまうことは納得できなかった。
大崎さんは、泳げないダイバーとして、青木さんと双璧であり、ウエイトを5キロ首に巻いて泳ぐ、だれかがネックレスと呼んだ練習方法を考え出して体験した時に、二人ともプールの底に沈んだ。
大津善彦 日大芸術科卒で、フィルムによる水中映画撮影には、自信を持っていた。苦学した学生時代、後楽園野球スタジアムで弁当を売り、重い弁当を抱えてスタジアムの階段を上り下りして、弁当売上の新記録を樹立した。 水中撮影第一世代のエースの一人になり、後に、サイパンでダイビングサービスを開き、現在でもカメラマンとして活躍している。 ボイト(VOIT・アメリカのダイビング器材メーカー)のバイキングを手に持って写っている。 バイキングは、ブーツタイプのフィンで、ブレードの面積が大きい。ブーツの部分とブレードの部分は色が違っていて、ブーツの部分はやわらかいゴム質でダークブルー、ブレードの部分は少し淡いブルー、ブレードの表面に白地でバイキングの帆船のレリーフが入っている、誰でも欲しくなるようなしゃれたデザインで、しかもブレードがきれいな曲線で角度がついている。 |
足の裏の平らな線を延長した方向にそのままフィンのブレードの底面を伸ばしたフィンをストレートフィンと呼び、ブレードの底面が下に向かって角度がついているフィンをオフセットフィンと呼ぶ。フィンを手に持って水平にして見て、ブレードが下に向かって角度がついているのがオフセット(角度)フィンである。角度をつけることによって、蹴り降ろすダウンストロークと蹴り上げるアップストロークの力の配分が平均され、疲れにくくなるというのが角度をつける理由である。といって、角度を付けすぎると、歩き難くなる。極端に考えると足の裏に直角に90度の角度をつけたならば、一本歯の高下駄を履いたようなもので、まったく歩けない。45度以上のオフセットをつけると、泳ぎ方そのものも大きく変え なければならなくなる。45度までの範囲内でブレード全体の面積、ゴムの硬度、デザインの美しさ、などを考え合わせて最小の力で最大の推進力が生み出せるように知恵を絞るのがフィンの設計の大略である。
チャンピオンはオフセットが極くわずかであり、ロンディンははっきりわかるオフセットがついている。バイキングは優雅な曲線でオフセットがついている。
私が履いてみると、思うように動かせない。硬くて、面積が大きいから、チャンピオンで慣らされた筋肉には無理なのだ。大津君のように後楽 園スタジアムで弁当を持って走りまわり、鍛えた足を持っているひとでないと無理だ。
このように、大きな筋肉の力を必要として、そして大きな推進力をきっと出しているのだろうと想像できるようなフィンをパワーフィンと呼ぶことにした。バイキングは見かけの優美さとは裏腹に、パワーフィンなのだ。
もう一つ、ダックフィートと呼ぶパワーフィンがあった。その当時に潜っていた人ならば誰でも懐かしく思うフィンだ。かかと部分はチャンピオンと同じようなベルトタイプであったが、これは大きなフリーサイズで、足の小さい人は使うことができなかった。あめ色をした生ゴムのような材質で、アヒルの水かきを細長くしたようなデザインだ。アメリカの水中破壊部隊が愛用していたフィンである。これも私の筋肉では動かせなかった。ダックフィートは、まったくのストレートフィンであり、オフセット(角度)はついていない。
ダックフィートは、作業ダイバーには人気があった。
バイキングやダックフィートのように硬くて大きいブレードになると、スリットを入れて、強い筋肉で水を押す力の一部をジェット水流のように後ろに流して推進力にすれば、筋肉の負担を全部推進力にしてしまおうと考えるようになるのだろう。ジェットフィンと呼ばれる、ジェット機の翼のフラップを連想させるようなスリットを持つフィンが発売されて人気を集めた。 これは、ロンディンのようなソフトなフィンに孔を開けてしまうのとはちょっとちがう。
ジェットフィンの全盛は、もう少し後のことになるので、日本潜水会発足のメンバーの写真には、まだ、ジェットフィンは見られない。
ジェットフィンには、ストラップタイプもあり、ブーツタイプもあり、割合にソフトなものもあり、バリエーションがあった。20年以上のダイビングキャリアのある人は、一度はジェットフィンを使った経験のある人が多いだろう。手元にある、「ダイビングキアカタロク2000:雑誌ダイバーの付録別冊」を見ると、ロケットフィン、ジェットスラスト、ソフトジェットスラスト、ツインジェットの4点がジェットフィンの後継者として健在である。
私のダイビングスタイルは、ジェットフィンを使うスタイルではなかったので、履きこんで使ったことが無い。
ロケットフィンは、ジェットフィンとほぼ同じか、少し前に出現したスリットのあるフィンで、ジェットフィンの優雅な曲線は持っていないが、丈夫一式であること、ドライスーツや、厚手のブーツににフィットするので、作業ダイバーの間に人気が続いていて、根強く売れている。
加藤芳雅 なぜガスを保存する 当時、まだ法政大学の学生だった。彼と、その一期上の先輩が法政大学アクアダイビングクラブを作った。法政大学と私との縁は、加藤君とそしていつも東亜潜水機に遊びに来ていた谷内秀昭君から始まった。彼等が法政大学アクアダイビングクラブの創立者である。そして私の娘の潮美が、法政大学アクアダイビングクラブに入る。 加藤君は、チャンピオンを手にして写真に写っている。 | |
川瀬哲哉 東拓海洋公園の主任研究員で、海洋公園が魚突きのメッカから、海洋生物研究のメッカになる橋渡し時代に活躍した。 手には日本アクアラングが売り出していたアクアフィンを持っている。 | |
川俣実隆 鹿児島の男。 日本潜水会が発足し、これからどのように日本のスポーツダイビングを発展させて行こうかとまじめに一週間議論をたたかわせた。このことが、私たちの大きな収穫だったのだが、川俣は、水中盆踊りを全国的に展開しようと提案した。その時はまじめなのか馬鹿にしていたのかわからなかった。いまでも良くわからない。彼の伝説と珍行を書けば本が一冊できるが、水中盆踊りはついに実現しなかった。 鹿児島港で作業中、工具を海底に落とし、拾いに潜降して激烈な減圧症にかかり、車椅子の生活になった。 フィンはアクアフィンを持っている。 | |
河野祐一 NHKのカメラマン 河野、竹内が日本潜水会の発起人になり、以後、NHK水中カメラマンは日本潜水会のメンバーとなることが恒例となり、そのまま、日本潜水会の後身である全日本潜水連盟にまで続いている。河野も竹内も湘南ボーイであり、真鶴の後藤道夫のダイビングセンターがダイビング活動のベースであった。そんなこともあって、後藤道夫のデザインしたフィンを持っている。このフィンはチャンピオンと同様にベルトタイプのフリーサイズであり、ストレートに近いフィンで、桜の花びらのようなデザインである。後藤フィンとでも呼ぶことにする。素直なフィンで、チャンピオンの後継で、スピードを要求しなければ、このフィンだけあれば充分とも思えた。 | |
後藤道夫 もちろん彼の開発した後藤フィンを片手に持ち、マスクも彼がデザインした(後でマスクの項で述べる)後藤マスクを持っている。 |
東海林章 東京で最初のダイビングショップというと、菅原久一の潜水研究所であるが、これはショップと呼ぶにはあまりにも商売っ気が無さすぎる。東亜潜水機もダイビングショップではない。やはりダイビングショップの東京での嚆矢は太平潜水だろうか。湯島にあった太平潜水は、ビルに元祖と大書してあった。店主は池田和一郎氏である。 |
東海林昭は、その太平潜水の店員第一号である。素潜りも魚突きも本当に上手だった。彼にダイビングを習ったという古いダイバーがたくさん居る。
日本潜水会発足時には、ボイトというメーカーのダイビング用品の輸入販売をはじめた大沢商会に移っていた。もちろん、フィンはボイトのバイキングを使っている。
白井常雄 商売人の顔とダイバーの顔と両方を持っている。商売人が主体でありボイトの販売を開始した大沢商会のダイビング部門の課長?になっていた。 007・ドクターノオ(007は殺しの番号)が公開されたのが1962年、ジェームスボンドの初代ショーン・コネリーの活躍する大ヒットシリーズは英国映画ではじまり、後にアメリカ映画になった。その第4作サンダーボール作戦は1965年の公開である。クライマックスは水中での戦闘シーンで、水中銃を備えた水中スクーターが走り回る。また口に小さな呼吸ガスカートリッジをくわえて潜水し、敵の基地に潜入したボンドが、ドライスーツを脱ぐと、中には真っ赤なバラを胸に付けたタキシード姿になっているシーンもあった。 そのサンダーボール作戦に、ボイトのマークをつけた、白塗りのダブルタンクが登場する。もちろんフィンはバイキングだった。サンダーボール作戦の公開された日比谷映画では、ボイトの白塗りのタンクが並べられた。 "トップアルカイダ"サウジ軍の核ミサイル源 |
ダイビングに限らないのだが、映画は流行の大きな節目になっている。ジャック・イヴ・クストーの沈黙の世界、フォルコ・クイリチの青い大陸が、アクアラングが世に出る大きなきっかけとなった。そして007である。その後では、「彼女が水着に着替えたら」が日本のダイビング業界の繁盛を招いた。 白井常雄は大沢商会で007のボイト製品を扱う中心になった。ボイトのフィンは、バイキングとダックフィートで、両方とも小柄な白井常雄の脚力では辛いものがあったと思うが、もちろんバイキングを使っていた。
清水英二 浜松の繊維工場の経営者で、同時に浜潜というダイビングショップを作った。現在でも浜潜は健在である。もちろん今は息子さんの代になっている。 フィンはフラップの付いたスーパーロンディンを使っている。 | |
鈴木博 目黒に日本スキューバ潜水というダイビングショップを作ったが、現在は潜水作業会社になっている。 その後、ドライスーツの開発に熱中し、水返しのついたクラシックなドライスーツの形を現代風にアレンジしたオー式ドライスーツを作り上げ、現在のドライスーツメーカーのゼロを立ち上げた。 私とは、中学高校からかかわりがあり、私の会社スガ・マリンメカニックを設立する手助けをしてくれた。 | |
須賀次郎 私だが、写真では皆がウエットスーツを着ているのに、在日米軍の防寒コートを着て写っている。在日米軍にはダイビングを趣味にしている人もいたが、立川の基地には、パラレスキューがいた。この部隊は、世界最強のダイバー集団だった。何か海難事故があると、彼らが飛び立って行く。スクーバを着けてパラシュートで救難のために降下するのだ。時化の夜の海でも平然と飛び込んで行く。彼らに助けられた漁船の話が新聞に掲載されたこともある。命をかけて飛び込んで行くのだが、遭難者が生存の見込みがなければ、簡単に引き返してしまう。生命を助けるためだからこそ生命を賭ける価値もあるのであって、遺体の捜索などは、遺族がお金を払って勝手にやれば良いという考え方だ。 |
彼らは真鶴ダイビングセンター、後藤道夫のところにダイビングをやりにくる。日本でいえば、命がけの火消し人足みたいなものだから、基地の中でも巾が利く。半ばアウトローでもある。防寒コートやボンバージャケットなど、日本人が喜びそうな物をくすねてきて、後藤道夫がつくるウエットスーツなどと物々交換する。私たち後藤道夫の親友は、それをもらったり、買ったりした。後年、ボンバージャケットなどがブームになったら、私たちは、はるか昔に米軍スタイルで海に出ていたのだ。
私は、もちろんチャンピオンを使っている。
竹内庸 NHKのカメラマンで、河野祐一の仲間である。自然のアルバムなどを沢山撮影していた。NHKのカメラマンとしては、最も早くダイビングを習った人で、日本潜水科学協会がまだ日本ダイビング協会であったころの講習会に出て、スクーバダイビングを習っている。 後藤フィンを手に持っている。 | |
鶴耀一郎 今は亡きこの不世出の魚突きスキンダイバーのことは、書くlことがたくさんありすぎる。別に紹介するつもりだ。 日本潜水会の結成講習会では、一週間にわたって、毎日数時間を費やして、今後の日本のスクーバダイビングはいかにあるべきかを討議した。 討議の最大の問題点は、今後は魚突きを止めようということだった。カメラマンの河野、竹内は趣味で魚を打ち殺すことなど絶対に止めるべきだと強硬だった。 日本では漁業調整規則があり、潜水して銛で魚を突いてはいけないことになっている。日本は法治国家であり規則でいけないと定められていることを行う団体など存在するべきではないという論に打ち勝てる者は居なかった。それが結論だった。私も、それまでは、いっぱしの魚突きダイバーであったが、日本潜水会結成以来、水中銃も銛も手にしたことは無い。 |
困ったったのは鶴耀一郎だ。彼は、魚突きに人生を賭けていたのだから。
日本潜水会の取り決めだけの理由ではなかったかもしれないが、やがて彼は奄美大島に移り住んで、糸満ダイバーに仲間入りして魚突きの潜水漁師になった。魚突きに人生を賭けるのならば潜水漁師になるしかなかったのだろう。潜水漁師として成功し、潜水潜水組合の組合長にもなった。
当時は、真鶴の後藤アクアティックの社員だったから、後藤フィンを手に持ち、素潜りの姿で、手には銛を持って写っている。
友竹進一 伊豆海洋公園の主みたいな人だったが、彼も今は亡き人だ。中村宏次、小林安雅など今をときめくカメラマンたちからは、親父のように思われていた。 彼の息子である友竹昇は、2000年12月の全日本スポーツダイビング室内選手権大会で、400mを泳ぎ、4分34秒95の新記録を出した。彼の前の記録が4分43秒だから、驚異的な記録である。昇君は国立大学を卒業したが、伊東市富戸の漁協で定置網の漁業者として海のプロになろうとしている。日本潜水会発足の時には、まだ彼は生まれていなかった。老けた顔をしているが、友竹は結婚もしていなかったのだから。 フィンはバイキングを手にしている。別の手には網を持っている。この網で小さな魚を採集し、海洋公園を魚研究のメッカにしようという意気込みだ。現在では、採集してしまうことは、ダイバーのコンセンサスを得ることができないが、新種を発見しても採集して調べなければ、種の同定が認められないのだから、最小限度の採集は必要である。 | |
野田充彦 学習院大学の学生だった。彼は後にBSAC(ブリティッシュサブアクアクラブ:英国潜水クラブ)の日本支部を作る。現在のカード発行団体のBSACではなく、プリンスオブウェールズが会長である商業ベースではない時代の英国のBSACの日本支部である。 フィンはアクアフィンを使っている。 | |
長谷川剛史 神田に店をかまえるミナミスポーツのアクアラング担当だった。ウエットスーツの胸にはミナミのロゴが入っている。ミナミスポーツも現在の大チェーンではなく、未だ、神田本店一軒だけの頃である。後にミナミスポーツの拡大とともに、広報担当部長になった。2001年、彼は停年まで勤めてミナミスポーツを退職した。 そして、2002年、ミナミスポーツは会社更生法の適用を申請する。 イタリーのメーカーであるマレスのフィンを履いている。当時のマレスはクレッシイの亜流と見られていて、ロンディンと同じような形で、スリットで水が逃げるようになっている。フィンの中に小さなフィンがあるようなスリットである。後にマレスはヴォイトを買収して傘下に入れ、ダイビングメーカーとして大手になる。 | |
松沢亮二 泳げないダイビングショップオーナーである青木大二の主催するダイビングクラブの会長であり、彼も泳げない。しかし、水中での活動能力は抜群であり、魚突きのエキスパートであった。フィン、マスクとスノーケルを取り上げたら、すぐに溺れてしまう。日本潜水会の初代の事務局長に就任してもらった。長という名前を付けることを嫌った日本潜水会で唯一の長は事務局長であった。 泳げないダイバーが創始者に何人もいたのに、日本潜水会の基本コンセプトは「泳げない者は良いダイバーにはなれない。」であった。 「泳げなくても潜れますというキャッチフレーズを誰かが出すと、とんでもないと、否定する流れになった。 フィンはクレッシイのロンディン(スーパーロンディンではない、普通のロンディン)を使っている。 | |
望月昇 後に中部日本潜水連盟の会長、さらにその後で潜水指導団体ADSの会長になった。 スキンダイビングでも魚突きでも、何をやってもタフで上手だった。 アクアフィンを履いている。 | |
森良雄 この当時、名古屋で、名鉄のプールでダイビング指導を行っていた。その流れで現在のジャパンクマスがある。、最近まではジャパンクマスの指導を行っていたが、退職して、元気で自分のビジネスを展開しはじめた。 クレッシイのロンディンを使っている。 | |
山本賢三 神田小川町の金沢スポーツは、ダイビング用品の販売に参入してきたスポーツ用具屋として、最も古く(二番目がミナミスポーツ)、その金沢スポーツのダイビング用品責任者であった。 アクアフィンを使っている。 | |
益田一 足が不自由で、カメラマンとして泳ぐには何の支障もないが、プールでのトレーニングは無理だとして、特別会員になってもらった。手にはローライマリンを持っている。 伊豆海洋公園が東拓海洋公園として発足したのは1964年(昭和39年)である。不動産開発会社であった親会社の東拓が伊豆高原の別荘地を開発した。別荘には海水浴場がほしい。しかし、このあたりは、富士火山帯の噴出溶岩地形で、海水浴が出来るような砂浜がない。そこで、大きいプールを作った。しかし、ここに海水浴プールを作るにあたって、リゾートホテルに見られるようなひょうたん型のような変形プールではなく、競技用の規格を備えた50mプールを作ったことは、企画者であった益田一さんの先見であり、このプールが無かったら、私たちの競技会は育たなかった。そして、レースのみならず、プールでスクーバの練習をするプログラムもこのプールで生まれた。 |
潜水訓練 手前の東亜と書いたタンクを背負っているのは須賀で、当時東亜潜水機に勤務していた。座布団のようは救命胴衣は、当時試作中のもので、小さな空気ボンベで膨らませる。
日本潜水会より少し遅れて、潜水科学協会の関西支部も集まって関西潜水連盟を結成した。当時の指導者である村上忠一氏、松野正司氏、など今なお健在で指導活動を続けている。
中部日本では、日本潜水会に参加した望月昇氏が中心になって、次の年に中部日本潜水連盟が結成された。
日本潜水会も、すぐに第二期、第三期の指導員研修を行い、現在ダイビング業界の中心になっている人たちを次々と輩出させた。第二期、第三期もこのように紹介したいが写真が無い。ここに紹介した写真は後藤道夫が撮った。記念写真の重要さが長い年月の後でしみじみと思い知らされる。
その後、私達は浮き沈みの人生を送りつつ、波の高い海を泳ぎつづけている。
ここでは、フィンの紹介をするつもりであったのだが、写真を眺めて書いていたら、ついついノスタルジックな想いにとらわれてしまった。それはそれで良いだろう。
フィンについてここで言おうとしたことは、フィンを見ればその人のダイビングスタイルがわかるということ、そして、水泳が出来ても出来なくても、自分のダイビングスタイルを確立し、スタイルの限界を見極めて、自分なりの安全性を確立することが求められる。そして、その安全性はフィンの選択と使い方に拠っているところが大きい。
ここから後の部分は、このコンセプトに従って述べて行きたい。
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